一、神社の所在地及び祭神 祭儀

○神社名 竹屋神社(旧県社)
規則承認(鹿規承第二九六号) 昭和27年9月25日
宗教法人設立登記 昭和28年2月3日
鎮座地 南さつま市加世田宮原2360番地(字万一畑)
本殿 間口5.5米、奥行4.5米、春日造り、拝殿43平方米
境内敷地 約一町六反八畝(約16,800平方米)
○祭神
〈中央本官〉
彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)(またの名を火折命)(神話での「山幸彦」)
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
〈東宮〉
火園降命(ホスセリノミコト)
〈西宮〉
火明命(ホアカリノミコト)(またの名を火照命)(神話での「海幸彦」)
○祭儀
例大祭10月9日
春祭1月11日(建国祭・お伊勢祭)
秋祭11月23日
その他慣例祭
夏祭7月19日(現在は19日に一番近い日曜日)(六月灯)
年始祭1月1日

二、「宮原」の地名由衆

神社取調帳によれば「宮原」というのは、「ニニギノミコト」が高千穂より、吾田の長屋の笠狭に到たりしとき、皇居を建てられた地といわれている。その後「大山祇命」の御娘「木花咲耶姫」と結婚し、内山田の舞敷野の地に皇居を建てられ、彦火々出見命をはじめ兄弟三皇子が竹屋ヶ尾で出産され、その後この地に皇居を建て、皇子たちは成長されたと伝えられている。故に古来からこの地は「宮原」と呼ばれるようになったという。

三、祭神の出生(神話)

「木花咲耶姫」が皇子達を出生するについては、神話では「無戸室」を建て、火をかけ、その中で出産されたという。最初火が燃え始めたとき生まれたのが「ほすせりのみこと」、次に火盛んなるとき生まれたのが「ほあかりのみこと」、次に火が弱り、ほとぼりを避けて生まれたのが「ひこほほでみのみこと」とされている。また、この皇子たちのへその緒を竹刀で切り、その竹を捨てたものが根付き、「へら竹山」として今も竹屋ヶ尾の山の麓に現存しており、南さつま市において管理されている。「豊玉姫」は、神話での海神「大綿津見神」の娘で、「山幸彦」が海でなくした釣り針を見つけてやり、山幸彦と結婚し、やがて皇子が生まれるため、産屋を建てることになったが、建物の屋根が出来ないうちにお生まれになったのが「うがやふきあえずのみこと」であり、東征されて日本国第一代の神武天皇となられた命の父君である。

四、神社の建立

この神社は、当初竹屋ヶ尾の麓にあったものを、「宮原」の皇居跡に移したもので、その理由としては、「ににぎのみこと」を祀ってある野間神社の神輿が、毎年正月二十日当社(内山田の旧社)に臨御せられる関係で、その道程をできるだけ短縮するためであったといわれている。建立は非常に古く、約一千年以前だろうといわれている。現在残っている棟札に、慶長15年(1610)6月14日再興、その表に応保元年(1161)10月7日造立とあり、今から834年前となる。そのほか建治3年(1277)、正和4年(1314)、正中4年(1328)、文明8年(1478)の再興の棟札があり、文字の判読できないものが3~4枚ある。故に一千年以前からと推定されている。
この神社は、神話での「山の神」、「海の神」として古来から尊敬され、加世田郷の惣社「鷹屋大明神」として崇められ、藩政時代は島津家から莫大な寄付等があり、盛大な祭りが催されていたという。
明治元年の神仏分離令により、明治5年に「鷹屋大明神」から「竹屋神社」に改名された。明治維新により、一切の援助を打ち切られてからは、旧加世田郷(加世田、万世、笠沙)で祭費を拠出して祭典を維持し、昭和10年頃からは、旧万世町のみで祭典を執行してきたが、昭和38年、管内竹屋神社総代会において、神社の維持管理一切を宮原区に委任することが決定され現在に至っている。当神社の宮司は、代々平家の一族である「仁礼家」が司で、「鮫島家」が宮司であった。現在の宮司は、竹田神社の宮司、井上祐史氏である。

五、「摂社」及び「末社」

西宮の西隣には「摂社」として建立されたものと思われる、「海津見宮跡」があり、祭神「豊玉彦命」を祀ったものといわれるが、今ではその基礎石だけが残っている。また、参道両脇には「門守神社」があり、祭神は「善進王」といわれ、本社の「末社」として祀られたものと思われるが、いまではその跡もなく、共に再建せず本堂に合祀したものであろう。

六、火々出見神社の合祀

竹屋ヶ尾の山頂にあった「火々出見神社」は、明治6年に由緒ある神社として、当時数少ない県社の一つであったが、未だ社殿の建立ができていなかったので、この神社は当時の郷社竹屋神社に合祀され、明治42年12月13日に竹屋神社を「県社」として切替えたものであって、従って火々出見神社境内の竹屋ヶ尾の山林三反一畝(3,078平方米)も、竹屋神社の所有地となったものである。

七、聖跡顕彰地指定に伴う諸工事

紀元2600年記念事業として、県において県内の聖跡を顕彰することになり、竹屋神社も昭和15年11月、皇祖発祥の地として指定され、県の補助金三千円を受けて諸工事が実施された。事業の内訳は、敷地拡張買収三反五畝3691円、記念碑建設2620円、境内風致費1479円、その他社務所増設、玉垣工事、石垣工事等1240円を要し、労力は益山校区民の奉仕作業であった。

八、境内小丘の「磐境」

神社境内裏の小丘に「彦火々出見尊」の御陵と伝えられている「磐境」がある。昭和5年(1930)当時考古学界の権威者であった、故鳥居竜蔵博士による調査で、尾形の岩石は、「ドルメン」の傘石であり古代人の信仰上の対象物で、最も古いものであったと発表されている。